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戦争に学ぶ【働き方改革】と慰霊碑から感じたスピリチュアルな体験談

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はじめに 

名もなきキャリアコンサルタントこと敬天愛人です。 

 

慰霊碑

7/10の記事、ゴミ拾いとシンクロニシティ(共時性)に書いた、 

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ウォーキングで良く行く神社の横に戦争の慰霊碑があります。

 

私は必ずこの慰霊碑の前で手を合わせ戦死者を弔い、

日本を守ってくれたことに感謝する「有難う」を伝えた後、

隣の神社へお参りして、私に関わる全ての人の幸せ、

そして、日々の感謝を祈るのがウォーキング中の趣味なんですね。

 

お賽銭は10円、

最近お金が無いので申し訳ないがたまに5円です(笑)

 

この慰霊碑は結構大きくて、関東大震災、日清・日露戦争、

大東亜戦争の地元戦死者等が祀られています。 

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この近くに引っ越した時、

ひっそりとしたこの場所でたまたま見かけたのですが、

この慰霊碑に私の大伯父らしき名前を見つけました。

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自分の家の墓に確認に行くと、やはりそうです。

大伯父と同じ名前です。

 

私はもちろん彼にあったことは無いのですが、

「祖母がよく私に似ている」と言っていたので、

不思議と、とても親近感があるのです。

 

写真は白黒でぼやけていて、

そう言われれば似ているのかもな~くらいでした。

 

大伯父は長兄で妹3人でしたから、とても頼りにされていた様子が

祖母の話を聞いていると良く分かったものです。

 

もしも生きていたら家系図は大幅に変わり、

祖母の苦労多き人生も変わっていたことでしょう。

 

それだけに戦死した時の悲しみは、想像に難しくありません。

 

占い師 

もう一つ、気になることがありまして、

この神社の近くに引っ越す前に、とても有名な占い師を紹介されて

私自身を占って頂く機会がありました。

 

私は占いを信じる信じないとかではなく、

スピリチュアルな話も含めて、人智は一部の認識でしかなく、

目に見えない世界は面白いなと思っているような人間です。

 

その占い師の方が言うには、私には三人の守護霊が居て、

いつも私の傍で守ってくれているのだと

話していたことを思い出しました。

 

三人の守護霊

一人目は母方の祖父

私が初孫ということもあり、たぶん人生で一番、

私のことを可愛がってくれて、私が一番、懐いていた方です。

 

大らかさを絵に書いたような、

藤村俊二似の優しいおじいちゃんでした。

 

どのくらい懐いていたかというと、祖父が仕事に行く前に、

車庫のドアを釘で打って行かせないようにするという逸話があるくらいです。

 

全然覚えてはいないのですが・・・(笑)

 

しかも占い師さんによると祖父は前世では

「私の実の父親」だったそうです。

 

なるほど・・・だからかと、腑に落ちました。

「母親は前世と一緒」とのこと、これも腑に落ちました。

 

では、今の父親は?と聞くと、

「え~、あなたが前世でしていた商売の取引先の人」と言われました。

 

あ・・・。だからか・・・と、

 

更に、妙に腑に落ちたのが、ある意味残念(笑)

 

ちなみに私の前世は、

フランスとドイツ国境辺りに住んでいた馬蹄職人らしい。

 

二人目は1600年頃に亡くなった武士

なるほど・・・と、腑に落ちました。

 

母親の家系はつ菱の家紋で、古くは信濃、甲斐辺りから

関東平野に来た武将が起源なのであり得ます。

 

しかも私は歴史や戦国武将(上杉謙信)が大好きですから(笑)

 

三人目はあなたの大伯父

この人は兵隊さんだよと言われました。

 

私はすぐにどんな人ですか?と聞くと、

大伯父と名前はなんとなく合致しています。

 

しかも、非常に暑いところで水に関係するような

死に方をしたと教えてくれました。

 

大伯父は南方の戦線で乗船していた戦艦を撃沈され

戦死したと聞いていたので、確かに外れてはいないな・・・、

このことは参考までに覚えておこうと思いその場を後にしました。

 

そんなこともあり、引っ越し先でこの慰霊碑に出会ったことに、

運命を感じずにはいられませんでした。

 

それに引っ越し先から見える老人ホームには、

私の大伯父の妹が入居していたことからも

少なからず因縁があるのでしょう。

 

その方も、晩婚で実家にずっと居たので、

私を大変可愛がってくれた方です。

 

思えば祖父の次くらいに私が懐いていた人でしたね。

 

ここに住んでいる限り、この祈りは続けていきたいと思います。

 

・・・戦争が残した思い

さて、前置きはこのくらいにして、戦争が残したものを考えてみます。

歴史を知ることはとても大切です。

 

「小池百合子氏」座右の書 

東京都知事になった小池百合子が座右の書としている

「失敗の本質」という本をご存知ですか?

大日本帝国がいかに負けたかという本です。

 

戦略的大局観の欠如、楽観主義、それから縦割り、兵力の逐次投入とか、

こういうことで日本は破滅へと突き進むわけですが、

じゃあ、全部の戦場で負けてたのか、というとちょっと違います。

※なぜ大本営がこういう状態だったのかという深い理由は置いておきます。

 

負けに学ぶのは大切なことですが、

勝ち戦があったこともきちんと知っておくべきであると思います。

 

こういうことは敗戦国では広まらないだけに大切な気がします。

 

この戦争で日本の名将が何人かいるのですが、その中の一人、

宮崎繁三郎中将の話が「働き方改革」に繋がる可能性があるので、

ご紹介していきたいと思います。

 

名将 宮崎繁三郎

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wikipedia:宮崎繁三郎中将は、

ノモンハン事件からインパール作戦まで

数々の戦を戦い抜いてきた名将ですが、

その戦い方に「働き方改革」を成功させるヒントがあると思っています。

 

彼の素晴らしいところは人間性だけでなく、

信念と用兵戦術にあるのです。

 

宮崎繁三郎の信念 

彼は常に部下の身を案じており、

「最小の犠牲で最大の戦果を挙げる」

・・・平凡であるが、作戦の要はこれに尽きると言っています。

 

当たり前だろ~と言われるかもしれませんが、

大東亜戦争の後半は、この作戦要諦と逆な状況がほとんどです。

 

現代の企業運営に当てはめると、

「定時という決められた時間内で

 最大の営業成績を上げる」

ということです。

 

「量よりは質、質より和」

司令塔としての宮崎繁三郎中将は、 

「量よりは質、質より和」

と強調していたそうです。

 

少ない資源の日本だからこそ、

和が大切であることを熟知していたのでしょう。

 

中小企業も同じです。

 

少ない資源だからこそ、

手を取り合って戦わなければならないのではないですか?

 

そして、

具体的な作戦

をこのように指示しています。

  1. 装備の優秀な敵に対し、劣等装備の寡兵で腹中深く突入するのだから、編成装備は尋常一様ではならぬ。歩兵にしても同じ編成装備をする必要もなく、三個大隊を均等にする必要はない。
  2. 連隊長の信任する某部隊を極度に増強して必勝大隊を作るが良い。
  3. 大隊・中隊・小隊も同様に人員も平等にする必要はない
  4. 分隊内にしても、いずれも小銃を持たせる必要はない。手榴弾の巧みなものは手榴弾を10個以上持たせて、その変わり小銃を持たせる必要はない。
  5. これなら勝てるという確信を有するよう思い切って、編成装備を改編せよ。とくに敵中深く突入するのだから、その先鋒の尖鋭無比なるを絶対必要とする。

 

分かりますか?

 

要約すると、

「主体的に考えて、

 自分が得意な戦法でベストを尽くせ」

と言っています。

 

こんなことは当時の日本帝国陸軍ではありません。

「あの~、たまには手榴弾を

 投げたみたいんですけど・・・」

とか言ったら、上官にめちゃくちゃ殴られる時代です。

 

でも、例えばジャングルで戦っていて敵と遭遇したら、

上官の命令なんて聞いている場合じゃないし、

いち早く判断して相手と戦わなくてはいけません。

 

主体的に考えて戦う方が間違いなく強いと思います。

 

これが実際の現場で必要なことで、

駒を動かして戦略を練るだけの机上の戦争をしていた参謀本部が、

日本軍を数多く無駄死にさせた要因の一つであり、

最後まで自分は安全な場所に居たからこそ、

命が惜しくて責任逃れした要因です。

 

相手が3万か・・、宮崎中将なら5千で持ちこたえられる、

あと二日待って1万援軍を出そう、などと現場の意見を聞きもせず、

命令を出していたのですから勝てる訳がない。

 

その間に失われているのは「尊い命」ですから。

 

真の「和」

そんな中、宮崎繁三郎中将は下級の士官も集めてよく話を聞いて、

兵士たちが本当にやりたい編成や装備、

個人の得意なことを最大限尊重して戦ったのだそうです。

 

これが、真の「和」です。

 

でも、当時、これバレたら結構やばいです。

 

そこは名将、彼が全責任を負ったとのこと。

 

そして、戦勝を重ねているうちに上からの圧力は無くなり、

逆に頼りにされて、最前線戦の厳しい戦場へ赴くことになるのです。

 

この柔軟な考え方が大本営に少しでもあれば・・・と悔やまれます。

 

相互理解と情報共有

そして、陸海空の縦割りを廃止し、軍をいち早く結束させ、

さきほど、シンガポールやインド付近で起きたことを全軍が共有できるような、

軍の垣根を超えた恐ろしい・・・

「相互理解」「情報共有」を可能にして、

本気になった最強のアメリカに敗れることになったのです。

 

人の真価

この後、宮崎中将は投獄されますが、その間も執筆をしたり、

部下の面倒を見たり素晴らしい人間性を発揮します。

 

「人間の真価は、その全盛期に現れるのではなく、

 その窮乏の時にこそ光を放つ」

 

彼は最前線に居る時から傷病兵を自分で担いで、

飯を分けながら戦ったそうですから、この言葉が本当に重く感じます。

 

まとめ

まずはここで、数少ない勝ち戦を分析し、

自分の組織や集団との違いを比較します。

 

そして、宮崎隊の個人を尊重した戦い方と、

主体性の引き出し方を学びことで、

敗因である「相互理解」「情報共有」の重要性ついて

ご理解いただければと思います。

 

こういう一人の人間、日本にも真の名将が居たことを、

忘れないでほしいと思います。

 

組織開発にプロセスコンサルテーションで介入しています。

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こちらは最新の「働き方改革」の記事です、宜しければ参考にして下さい。

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