名将 宮崎繁三郎
wikipedia:宮崎繁三郎中将は、
ノモンハン事件からインパール作戦まで
数々の戦を戦い抜いてきた名将ですが、
その戦い方に「働き方改革」を成功させるヒントがあると思っています。
彼の素晴らしいところは人間性だけでなく、
信念と用兵戦術にあるのです。
宮崎繁三郎の信念
彼は常に部下の身を案じており、
「最小の犠牲で最大の戦果を挙げる」
・・・平凡であるが、作戦の要はこれに尽きると言っています。
当たり前だろ~と言われるかもしれませんが、
大東亜戦争の後半は、この作戦要諦と逆な状況がほとんどです。
現代の企業運営に当てはめると、
「定時という決められた時間内で
最大の営業成績を上げる」
ということです。
司令塔としての宮崎繁三郎中将は、
「量よりは質、質より和」
と強調していたそうです。
少ない資源の日本だからこそ、
和が大切であることを熟知していたのでしょう。
中小企業も同じです。
少ない資源だからこそ、
手を取り合って戦わなければならないのではないですか?
そして、
具体的な作戦
をこのように指示しています。
- 装備の優秀な敵に対し、劣等装備の寡兵で腹中深く突入するのだから、編成装備は尋常一様ではならぬ。歩兵にしても同じ編成装備をする必要もなく、三個大隊を均等にする必要はない。
- 連隊長の信任する某部隊を極度に増強して必勝大隊を作るが良い。
- 大隊・中隊・小隊も同様に人員も平等にする必要はない
- 分隊内にしても、いずれも小銃を持たせる必要はない。手榴弾の巧みなものは手榴弾を10個以上持たせて、その変わり小銃を持たせる必要はない。
- これなら勝てるという確信を有するよう思い切って、編成装備を改編せよ。とくに敵中深く突入するのだから、その先鋒の尖鋭無比なるを絶対必要とする。
分かりますか?
要約すると、
「主体的に考えて、
自分が得意な戦法でベストを尽くせ」
と言っています。
こんなことは当時の日本帝国陸軍ではありません。
「あの~、たまには手榴弾を
投げたみたいんですけど・・・」
とか言ったら、上官にめちゃくちゃ殴られる時代です。
でも、例えばジャングルで戦っていて敵と遭遇したら、
上官の命令なんて聞いている場合じゃないし、
いち早く判断して相手と戦わなくてはいけません。
主体的に考えて戦う方が間違いなく強いと思います。
これが実際の現場で必要なことで、
駒を動かして戦略を練るだけの机上の戦争をしていた参謀本部が、
日本軍を数多く無駄死にさせた要因の一つであり、
最後まで自分は安全な場所に居たからこそ、
命が惜しくて責任逃れした要因です。
相手が3万か・・、宮崎中将なら5千で持ちこたえられる、
あと二日待って1万援軍を出そう、などと現場の意見を聞きもせず、
命令を出していたのですから勝てる訳がない。
その間に失われているのは「尊い命」ですから。
真の「和」
そんな中、宮崎繁三郎中将は下級の士官も集めてよく話を聞いて、
兵士たちが本当にやりたい編成や装備、
個人の得意なことを最大限尊重して戦ったのだそうです。
これが、真の「和」です。
でも、当時、これバレたら結構やばいです。
そこは名将、彼が全責任を負ったとのこと。
そして、戦勝を重ねているうちに上からの圧力は無くなり、
逆に頼りにされて、最前線戦の厳しい戦場へ赴くことになるのです。
この柔軟な考え方が大本営に少しでもあれば・・・と悔やまれます。
相互理解と情報共有
そして、陸海空の縦割りを廃止し、軍をいち早く結束させ、
さきほど、シンガポールやインド付近で起きたことを全軍が共有できるような、
軍の垣根を超えた恐ろしい・・・
「相互理解」と「情報共有」を可能にして、
本気になった最強のアメリカに敗れることになったのです。
人の真価
この後、宮崎中将は投獄されますが、その間も執筆をしたり、
部下の面倒を見たり素晴らしい人間性を発揮します。
「人間の真価は、その全盛期に現れるのではなく、
その窮乏の時にこそ光を放つ」
彼は最前線に居る時から傷病兵を自分で担いで、
飯を分けながら戦ったそうですから、この言葉が本当に重く感じます。
まとめ
まずはここで、数少ない勝ち戦を分析し、
自分の組織や集団との違いを比較します。
そして、宮崎隊の個人を尊重した戦い方と、
主体性の引き出し方を学び、
敗因である「相互理解」と「情報共有」について
ご理解いただければと思います。
こういう一人の人間、日本にも真の名将が居たことを、
忘れないでほしいと思います。